このエントリーは、慶応大学SFCの小檜山教授による情報通信文化論の最終課題 メディアの使い分けのためのエントリーです。
blogで課題を提出し続ける、というこの授業もついに最終課題。
今回の課題は、
・自分のメディア選択の基準とは?
・メディア選択によってどんなコミュニケーションが生まれているか?
書いて下さい。
究極的に言うと、人間は常にメディアを使い分けている。
小檜山先生と話すときと、ゆるまんの佐々木と話す時、俺は違う声で違う言葉遣いで話す。
小檜山先生と話す時、俺は小檜山先生のどこか天上界から話しているような感覚に飲み込まれるのが悔しいから、なるべく虚勢を張っている。
佐々木と話す時、俺はこの自称寸止めジゴロが、どーしても出てしまう弱さからの動きを見逃さないことを知っているので、なるべくそれを出さないように気をつけている。
そして同じ佐々木でも、例えば佐々木の愛するベニーが居なくなった時、(俺はあまり同情しなかったけど)それなりに言葉遣いに気をつけたものだ。
じゃあ、俺は本当の自分を見せるのか? 衣服や会話に代表される身体の動きというメディアを介さずに、どういう状況で誰になら本当の自分を見せるのか?
誰にも見せやしないだろう。メディアは人間の相手が居て初めて存在する。そして、人間は誰に対してもメディアを使い分けて、"ふり"をしている。だから、メディア選択の基準は、"相手の人間"と"その状況"である。それはMLやメッセンジャーという、身体の延長であるデジタルメディアだろうと変わらないと思う。
では、その使い分けによってどんなコミュニケーションが生まれているのか。
それは、相手を認識するコミュニケーションなのかもしれない。そいつは、頭が良いか否か、俺より強いか否か、男か女かetc etc そして、認識に応じて、また違う"ふり"をする。(参考:『意識とはなにか -「私」を生成する脳 』茂木健一郎著)
さて、これにて授業は終了なわけで、最後に授業の感想を。
正直、毎回、かなり真剣に考えていた。小檜山先生やTAの松村さんはどう思っているのか、他の皆はどんなことを考えたのかな、というので授業に行くのが毎週楽しかった。
blogで課題を提出していた意味は大きいと思う。これがレポート用紙だったら、それは先生に回収され自分のコンテンツではなくなる。レポート用紙は先生への手紙とか御願い状みたいなもので、丁寧な言葉遣いで、しかも先生しか読まない(と思ってる)もんだから、奇麗事ばっかり書くし、ほんと面白くないだろうな。書く方も読む方も。
その点、blogで出すと、自分のコンテンツとして世界中に認知される。たかが一授業の毎週のレポートがそういう形になるというのは凄く大きな意味を持っていると思う。インフォーマルな論文みたいなものだ。
レポートの価値が大きくなったが、そのつながりは未だ物足りなさを感じる。
細かいことを言えば、TrackBackの設定が上手く言ってないblogが多かったし、そこまで他人のblogを読む動機付けがなかった。
人と違うことを考えたい、という価値観がまた歪んだ方向に行って、あまり他人の書いてることを深く考えようとしなかった部分もある。
実際、そこまで深く考えて書いてる人も少ないような気もした。
いずれにせよ、授業形式としては当初の自分の予想よりも、色々な意味で意義があったと思う。しかし、小檜山先生のようなキーパーソンの存在が、結局全てをつなげてるのであって、最終的なコミュニケーションの魅力はマンパワー以外の何者でもないような気がする。
そして、共にゆるまん的情報通信文化論を初めとする、共に考えた受講生達よ。お疲れ様でした。










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